西郷隆盛の性格、人となり(その1)
西郷は若いころから、自分が正しいと思えば、相手が誰でも、ずけずけと意見を述べるタイプだったようだ。頑固で場の雰囲気も気にしないため、周りから煙たがられ、そのせいか、18歳から勤めた藩の役所では、10年間も昇進できなかったといわれている。
西郷には、かたくなに写真撮影を拒んだというエピソードも残っている。西郷が写真を嫌った理由には、暗殺のリスクを恐れたなど諸説あるが、明治天皇への献上写真ですら断ったといわれるほど、確固たる信念を持っていたようだ。
また、西郷は天を敬い、人を愛するという意味を持つ「敬天愛人(けいてんあいじん)」という言葉を座右の銘としていた。信念を貫き通す性格の西郷は、身分や性別、年齢にかかわらず徹底的に人を愛し、自身も多くの人から愛される人物となったといえる。
西郷は、当時の日本人としては珍しく、犬をペットとして飼育した愛犬家としても知られている。上野公園の銅像は、その愛犬を連れた姿が印象的である。
西郷は大変甘いものが好きだったうえに、倒幕運動が一段落した後は、運動不足がたたり、肥満と診断されていたそうだ。医師に適度な運動を勧められた西郷は、大好きな犬を連れて山へ行き、兎狩りを楽しんでいる。上野公園の西郷像が連れている犬は、兎狩りのお供をした「ツン」という名の薩摩犬といわれている。
身長は、五尺九寸八分(約180 cm)、体重は、二十八貫(約105 kg)と言われている。喫煙したが、酒は弱く下戸であったと伝わっている。
西郷隆盛の性格、人となり(その2:ウイキペディアより抜粋)
身分は低く、才知は私の方が遥かに上である。しかし、天性の大仁者である
吾従来色々の人に会って見たが、今日西郷に会ふて其人格の偉大、比すべきもの見出す能わず
なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ、少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く
軍人としては優れた人であるが政治家としては如何であろう。西郷自身も「自分は政治家に非ず」と言われていた
西郷は、強固なる意志を有せるに関わらず、人情に極めて篤かった。この情にもろい結果が西郷の徳をして盛んならしむると同時に、その生涯の過ちを惹き起こしたのであろうと察するのである
天稟大度にして、人に卓出して居って、そうして国を憂うる心も深かった。徳望も中々あったが政治上の識見如何と云うと、チト乏しい様だ。そこで自分でも深く政府に立つことを嫌っていた
維新の三傑といって、西郷、木戸、大久保と三人をならべていうが、なかなかどうしてそんなものではない。西郷と木戸、大久保の間には、零が幾つあるか分らぬ。西郷、その次に○○○○といくら零があるか知れないので、木戸や大久保とは、まるで算盤のケタが違う
西郷は、どうも人にわからないところがあったよ。大きい人間ほどそんなもので、小さいやつなら、どんなにしたって、すぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうではないのう
天下の識見、議論では西郷に負けぬが、天下の大事を決する人物は彼西郷である
西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国情厳なりと言えど、あに一人を容れるに余地なからんや
維新以来、抵抗の精神は消滅しつつある。西郷が武力で抵抗したことは賛成できないが、その抵抗の精神は重要。反乱者の扱いは寛容にすべき(明治十年丁丑公論)
座右の銘「敬天愛人」について
「敬天愛人」という語はいつごろから用い始められたか、的確にはわからない。前半生には見当たらぬようである。思うに、後半生、特に島津斉彬公の急死、月照上人との入水蘇生、五年間にも及ぶ大島流たくと死生大義の難関に直面し、その間の体験、思索、学問や修業から自然に悟りの人生に徹せられた、天理人生学の心境であろう。つまり、西郷の真の心の結論である。さて、この語の原点について一応考えてみると、「敬天」の語は「詩経」「書経」にもあり、「愛人」の語は「礼記」「論語」にもある。また、「尊天愛人」は漢書にもあり、「畏天愛人」は大西郷が親近愛読された陳竜川の著述にもある。しかし、「敬天愛人」と統一表現したのは、やはり、大西郷独特の至誠道からにじみ出たものであろう。大西郷の学問思想としては、儒学、特に王陽明の影響が大きい。陽明学では「前後内外なく、渾然一体、未発表のもの」が本源であり、実在であり、天理である。
この天理が天地万物の性であり、道である。この天然自然の道に従う人の良識は天の絶対至上の命令であり、その明徳を明らかにし、民親しむ心すべてはここにもとづく、そしてその心は己の我意我欲に克ち独りを慎む工夫に始まり、己を修め、人を治むるの、すべての道に通ずる。すなわち、「敬天愛人」の道は天地万物の一切に対してきわめて敬いと至誠の純情に徹し、明朗親愛の温情をもって事に当たる人間最高の理念である。まさに千古の哲理であり、またいずれの人にも適用できる実践道でもある。
西郷は、この「敬天愛人」の実践道の行者として無私無欲、天意を受けて万民の心に徹することに情熱を傾け、努力し、続けた人であることは、その生涯の行動を見れば、自ずから会得されるだろう。
石原貫一郎「西郷に学ぶ」(株)石原出版社 より抜粋
「南洲翁遺訓」について
「南洲翁遺訓」は、西郷隆盛の遺訓集で、大赦により、西郷の賊名が除かれたのを機に、庄内藩の中老 菅実秀(すげさねひで)らが、何度か鹿児島に西郷を訪ねて教えを乞うたものをまとめて、明治23年1月に、発刊したものである。遺訓は41条、追加の2条、その他の問答と補遺からなる。
内容は、為政者の基本的姿勢と人材登用、為政者が進める開化政策、国の財政・会計、外国交際、天と人として踏むべき道、聖賢・士丈夫 あるいは君子 からなる。天と人として踏むべき道は19条から29条に示されているが その一部を下に引用する。
二一 道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は、敬天愛人を目的とし、身を修するに、克己を以て終始せよ。・・・・
二四 道は天地自然の物にして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。
二五 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己れを尽くし、人を咎めず、我の誠の足らざるを尋ぬ可し。
菊池市七城にある熊本三州会が建立した記念碑
明治維新150年という節目の年の2018年9月24日(西郷隆盛の命日)、七城町西郷区に「西郷南洲公園」が開園した。この地は西郷といい、西郷隆盛公の祖先発祥の地であるとの強い思いからの命名だとのことです。この場所には、徳富蘇峰の筆による「西郷南洲先生祖先発祥の地」の記念碑(写真)がありました。 石碑の裏面を見ると、熊本三州会・加茂川村有志・熊本県有志による昭和27年10月の建立との文字が刻まれています。この碑のことは、会員は誰も知らなかったのですが、菊池市から熊本三州会の名前があるからとの案内があり、公園完成お披露目に、会長が臨席させていただきました。
西郷家は菊池市初代則隆(のりたか)の子・政隆(まさたか)が、この一帯にある菊池18外城のひとつ増永城の城主として、七城町西郷区に居を構え、西郷太郎政隆と称したことから始まる。西郷家26代の西郷九衛門昌隆(まさたか)が元禄時代に鹿児島の島津氏に仕え鹿児島に移住した。その子孫が西郷隆盛で、初代西郷家から32代目に当たるとのことです。また、菊池市と西郷が流され潜居生活を送った奄美大島の龍郷(たつごう)町とは友好都市となっている。西郷は大島では、「菊池源吾」(吾が源 菊池にあり)と名乗り、愛加那(あいかな)との間に生まれた子の名前を「菊次郎」「菊子」と「菊」の字をつけている。自分が「菊池一族」の後裔であることに、誇りに思っていたからではないかと言われている。