西郷隆盛とその時代

目次

要約

西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士であったが、当代一の開明派大名であった藩主の島津斉彬(なりあきら)の目にとまり抜擢され、斉彬の手足となって活動する中で強い影響を受けた。
斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、藩主忠義の父島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。
しかし、大久保利通らの後押しで復帰し、1864年の禁門の変以降に、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導するなど活躍した。
江戸総攻撃を前に勝海舟との交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
東北戦争終結後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職し、廃藩置県、太政官制改革など中央集権的統一国家の基礎を固めた。
明治6年(1873年)、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中に発生した朝鮮との国交回復問題では遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、帰国した大久保らと対立、この政変で板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校を設立する。明治9年3月廃刀令が出された後、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、熊本城や田原坂の戦いなどの後、敗走して城山で自刃した。
明治22(1889)年2月11日、明治憲法発布の大赦で赦され、正三位を贈られ、名誉を回復した。


以下に、「写真集・西郷隆盛」奈良本辰也監修 南日本新聞社編集・発行 <昭和52年9月1日発行>を主たる参考書として引用し紹介する。なお、以下においては、明治5年末までの和暦は太陰暦で西暦と併記し、明治6年正月からは太陽暦で記す。

黎明期(1827年~1853年、文政10年~嘉永6年、誕生~27歳)

西郷隆盛

西郷隆盛は、1828年1月(文政10年12月)鹿児島城下、下級藩士が軒を連ねる鍛冶屋町に生まれた。4男3女の長男であった。貧乏で子沢山の一家で、隆盛は親思い、弟妹思いの情の厚い子として育った。体格は幼いころから大柄で、体力も強く他を圧していた。8歳から10年間、藩の学校造士館に通い、読み書き算盤から四書五経まで学んだ。13歳の時、他地区の子弟と友人との喧嘩の仲裁をしようとして右腕を負傷、刀を握れなくなったため、武芸をあきらめもっぱら文に励む決意をしたという。郷中(ごじゅう)での文武の研鑽も怠らなかった。郷中とは、藩士の子弟の教育と士風振粛をはかる薩摩藩独特の制度であり、町ごとの地縁集団を単位として、厳しい自治によって青少年だけの相互鍛錬と教育を行うものであった。西郷は、22歳になると、年下の大久保利通、大山巌ら、後の時代の表舞台に姿を現すことになる青少年を統率した。18歳にして藩庁へ出仕し、藩の農政を担当する部署で年貢徴収の記録係として10年間働いた。当時は調所広郷(ずしょひろさと)の財政改革の下であったが、多感で正義感あふれる青年時代に、悲惨な生活の農民を相手にする厳しい農政に携わったことは、西郷にとって貴重な体験であり、この頃に後年に至る個性と思想が決定づけられたと考えられる。

 世の中の様子を言えば、西郷の生まれた文政10年は、調所広郷が登場した年であり、西郷が11歳の天保8年には、米船モリソン号が山川港外に寄港している。18歳の時には、フランス艦が琉球に来航し、その前年、翌年には英艦も琉球に来航している。

島津斉彬

こうした中、斉彬(なりあきら)が藩主となる(1851年3月、嘉永4年2月)。斉彬は、洋学への造詣深く、開明的な考えの持ち主で、時勢を鋭くキャッチし、近代産業の移植、軍備強化の必要性を痛感しており、慎重な中にも果断な藩政改革をすすめた。そして、傾倒する新藩主のもとで、西郷は農民たちの暮らしを救いたい一心で、農政に関する意見書を10年もの間、上申し続けたという。それによって、斉彬に「西郷」の名が記憶される。西郷が父母をなくした翌年(1853年、嘉永6年)ペリーが浦賀に来航、さらに翌年、西郷(28歳)が、江戸参勤の斉彬(44歳)に随行して初めて江戸の土を踏んだのは、幕府がペリーの圧力に屈して和親条約に調印した直後であった。

胎動期(1854年~1861年、安政元年~文久元年、28歳~35歳)

この頃の斉彬の考え方は、篤姫(あつひめ、斉彬の養女で、13代将軍家定の御台所)を通じて、一橋家の徳川慶喜(よしのぶ)を第14代将軍にし、公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかり、露英仏など諸外国と対処しようとするものであった。西郷は、内憂外患の幕府にある斉彬の耳目となり、手足となって働く中で、生涯、師と仰ぐ藤田東湖や盟友越前藩士橋本左内と出会う。そして、病弱な将軍家定(13代)の後に慶喜を押す活動をするが、大老に就任した井伊直弼が強権を発動して、1858年7月(安政5年6月)に日米修好通商条約に調印し、次いで、14代将軍を紀州藩主の徳川慶福(よしとみ 16歳)改め、家茂(いえもち)と決して、多くの反対派に弾圧を決行した。世にいう「安政の大獄」である。かくして、西郷の努力は水泡に帰す。


また、安政の大獄が始まって間もなくして、斉彬が病死する(1858年8月、安政5年7月)。殉死を考えたほどの失意の中、わが身に及ぶ危険に加えて、志士と朝廷の仲介役として暗躍していた勤王僧月照(げっしょう)をかくまわねばならなくなり、1858年10月(安政5年9月)薩摩に入る。しかしながら、このころの薩摩は藩主忠義の父、久光が国父となって掌握し、佐幕の藩内守旧派が台頭して藩論は一変しており、<おたずね者>をかくまう術はなかった。絶望した西郷は、11月、月照を伴って錦江湾に漕ぎ出し、二人して、身を投げた。

愛加那

西郷のみが蘇生したが、藩庁は、この事実を隠すために西郷に大島潜居を命じる。肥後菊池氏の末裔であることを誇りとしていたと思われる西郷は、名を「菊池源吾」(吾が源 菊池にあり)と改め、大島は龍郷(たつごう)の名家龍家の食客となる(1859年2月~1862年3月、安政6年1月~文久2年2月)。ここで、西郷は、愛加那(あいかな)をめとり、菊次郎(後に京都市長となる)と菊子を得る。

 

激動期(1862年~1864年、文久2年~元治元年、36歳~38

島津久光

安政の大獄から桜田門外の変(井伊直弼暗殺1860年3月、安政7年3月)へ、時代は激動の色を深めていた。この間、薩摩藩でも勢力・藩論に変化が生じていた。すなわち、大久保らによる革新派の藩論が行われ、久光は、斉彬の遺志を継ぎ、武力を背景にして幕府に朝令を奉じさせ、幕政改革を行って乗り切ろうと考えていた。公武合体の考え方である。そこで、斉彬時代からこの計画に奔走して、公家や諸侯・藩士らと面識交友がある西郷が、大島から呼び戻されたのである(1862年3月、文久2年2月)。西郷は、久光上京に先立って九州地方の情勢を視察し、下関でその到着を待つことになっていたが、討幕挙兵の計画を持つ過激派志士を説得するために大阪に向かった。この行動が、久光の激怒を買い、遠島の厳罰が下り、沖永良部島へ流され、2坪ばかりの牢内に座す身となる(1862年7月~1864年4月、文久2年6月~元治元年2月)。この島流しの数日後、寺田屋事件がおこり、また、久光の江戸からの帰途、生麦村で、生麦事件(1862年9月、文久2年8月)を起こす。1863年8月(文久3年7月)、先の生麦事件に対する報復としての薩英戦争が起こり、かろうじて英艦を追い払ったものの、薩摩藩はこの戦争により攘夷の無謀を悟る。京では、長州藩を中心とした急進的尊攘派と薩摩藩・会津藩の公武合体派がせめぎあう中、薩摩藩では、勢力を強化して幕府を抑え、朝権を回復すべきとして、再び、西郷呼び戻しの声が起こる。1864年4月(元治元年2月)、鹿児島に戻った西郷は、数日後に上京し、久光に軍賦役を命じられ、京都で薩摩藩を代表して活躍することになる。

 この時期、長州藩を中心とした尊攘派の一部と会津・桑名2藩を中心とした浪士を集めて幕府が組織した新選組が池田屋で衝突する(池田屋の変 1864年7月、元治元年6月)。この報に接した長州藩は兵を率いて京に上る。幕府より出兵を命じられた薩摩藩は、撤兵を承知しない長州藩と戦い、敗走させる<1864年8月、元治元年7月、禁門の変または蛤御門の変>。禁門戦争は終わったが、天皇は幕府に長州征討を命ずる<第一次長州征討>。参謀となった西郷は、当初、長州を徹底的に叩こうと考えていたが、勝海舟の影響もあり、平和解決の交渉を行い、結果、長州は、三家老を処分し、恭順を示した。

革命期(1865年~1868年、慶応元年~慶応4年、39歳~42歳)

徳川慶喜
明治天皇

西郷の努力による和平解決から1年余にして、長州藩では再び反幕勢力が台頭していた。高杉晋作の騎兵隊が、豪農豪商と結んで藩権力を奪取し、対外戦争の経験から開国論に転じ、反幕派の拠点となって、武力対決の姿勢を見せていた。一方、薩摩でも、西郷・大久保らが藩の実権を握っていた。先の勝海舟との会談で幕府の無能を知った西郷は、公武合体論を放棄し、藩を挙げて反幕の姿勢を示すと同時に、天皇を中心とした雄藩連合政権の樹立を目指すようになっていた。土佐出身の坂本龍馬・中岡慎太郎が両藩の調停に努めたこともあり、二つの大藩が反幕の姿勢を固めたのである。かくして、この年、将軍家茂の大阪入城とともに始まった長州再征には、薩摩が加担せず、家茂の死とともに終わった。1867年1月(慶応2年12月)、朝廷における公武合体の中心であった孝明天皇が急死した。幕府では、15代将軍に慶喜が就任、そして、明けて1867年2月(慶応3年正月)、明治天皇(16歳)が即位した。大政奉還を藩論とする土佐藩、武力討幕の薩長・芸州(広島藩)など様々な動きが交錯する中で、1867年11月19日(慶応3年10月14日)、薩摩・長州両藩主宛に討幕の密勅が下され、同日、徳川慶喜は大政奉還を上奏、翌10月15日勅許される。大政奉還はなったものの、政体が定まったわけではなかった。慶喜は、広大な所領と実質的には征夷大将軍として軍事的・政治的実権を握っていた。そこで、西郷と大久保らは、討幕派公卿岩倉具視と協議して、クーデターを断行した。すなわち、天皇は、王政復古の大号令を論告し(1868年1月3日、慶応3年12月9日)、徳川慶喜の大政返上、将軍職辞退の承認、摂政、関白、幕府の廃止を決定した。しかし、慶喜は、辞官納地を受け入れず、大阪城に退去し(12月13日)、鳥羽伏見の戦い、すなわち、旧幕兵・会津・桑名の二藩兵からなる幕府側と西郷が統括する朝廷側(薩摩・長州・尾張・越前・土佐・安芸)との戦いが始まる(1868年1月27日~30日、慶応4年1月3日~6日)。

朝廷は、1868年1月28日(慶応4年1月4日)、征討大将軍を任命し、新政府軍(薩・長・尾張など22藩の藩兵)を官軍として任じた。大阪城に居た慶喜は、相つぐ敗報に接し、ひそかに海路江戸に帰る(1月12日)。参謀となった西郷は東海道先鋒軍として、駿府城本陣に入り、江戸城総攻撃に備えた。ところが、3月9日、勝海舟から書状が届き、江戸薩摩藩邸で勝海舟と会見し、降伏条件に関する談合を成立させて、江戸城総攻撃は中止された(1868年5月3日、慶応4年4月11日、江戸城無血開城)。

新政期(1868年~1673年、明治元年~明治6年、42歳~47歳)

明治元年3月14日(1868年4月6日)に新政府の基本方針「五ケ条の誓文」が示され、新政府のスタートを告げた。4月21日、五ケ条の誓文を具体化した政体書が発布される。太政官が再興され、その下に立法、司法、行政の三権が分立する新政府ができた。この時はまだ東北戦争は終わっておらず、佐幕的な東北諸藩は、奥羽越同盟へと発展しつつ、新政府への反感を募らせていた。しかし、総督府が派兵した大村益次郎の軍略が諸藩の抵抗を潰していく。国もとに戻っていた西郷は、大久保の意見で出兵を決していたがすぐには動かず、5月にようやく、船で出陣し新潟に着く。9月、会津落城、庄内藩も降伏し、東北戦争は終わった。庄内藩は庄内に入った西郷を恐れていた。なぜなら、先の鳥羽・伏見の戦いの引き金になった江戸の薩摩藩邸焼き討ちは、庄内藩士が主力であったし、西郷の次弟吉次郎をこの戦争で失っていたからである。しかしながら、西郷は敗将に丁重であり、処置は寛大であった。翌々明治3年、庄内藩主自ら70余名の藩士を伴って、鹿児島に遊学したり、同藩の名士(菅実秀)が、「南洲翁遺訓」を編むに至る事実は、この時の同藩の感激と西郷への心酔がいかに大きかったかを示している。東北戦争終了後、西郷は、江戸、京都を経て、鹿児島に帰り、日当山温泉に引きこもり、兎狩りの日々を送っている。しかし、藩主忠義が自ら藩庁出仕を要請するに及んで、参与として藩政に就くが、中央には出仕しないでいた。

函館五稜郭

この年、明治2年3月、江戸は東京と改められ、天皇と中央政府は東京に移った。その前年の明治元年12月、佐幕派の残党榎本武揚らが、函館五稜郭にこもったので、西郷も兵を率いて出征するが箱館に就く前に榎本軍は降伏した(明治2年5月18日、1869年6月27日)。明治2年6月、薩長土肥をはじめとして版籍奉還がすすみ、藩主は改めて藩知事となる。大村らの国民徴兵制度の導入などの兵制の改革などもあり、士族の不満は大きくなる。その大村が襲われて命を落とし、暴動が起こり始めた。ここで、西郷は再び中央出仕の要請を受ける。明治4年4月、上京した西郷は、まず、薩長土三藩が集めた約5千の親兵を誕生させ、この兵力をバックに、廃藩置県を実施した。同時に、太政官制を改革し、西郷・木戸・板垣・大隈が参議となって実権を握った。まさに王政復古に続くクーデターであった。こうして、全国の土地と人民は、すべて政府の直接の統治下におかれ、中央集権的統一国家の基礎が固まったのである(明治4年7月)。

 明治4年11月(1872年1月)、岩倉・大久保・木戸等の欧米への使節団が出発し、留守派参議筆頭としての西郷政権がしばらく続く。西郷は、許可なく人事や改革を行わないという約束をさせられていたが、改革の流れは止まらず、留守派は、銀行制度・貨幣制度の改革、地租改正、新しい徴兵制・学制などの新政策を次々に実施する。それぞれが大事業であるが、西郷はその困難を一身に背負うことになる。かくして、全国の不平士族に期待された西郷政権ではあったが、その施策の現実は士族の期待を裏切る格好になっていく。そして、西郷は、全国の不平士族の不満を征韓で解消し、返す刀で政府を改造し、行き詰まった局面の打開を図ろうとするのである。

終焉期(1873年~1877年、明治6年~明治10年、47歳~49歳)

大久保利通

帰国した岩倉は、朝鮮に開国を勧め国交回復をはかる遣韓大使として西郷を派遣するとした閣議決定とは反対の意見を天皇に上奏し、明治6年10月、裁決を得た。外遊派の大久保・木戸らは、交渉が失敗すれば戦争になりかねない外征よりも内治優先を主張して対立したのである。西郷・板垣・江藤・副島らの参議は辞表を提出し、征韓派の参議は太政官を去った。西郷らの征韓論の敗北は活躍の場を失った不平士族を刺激し、明治7年1月には岩倉具視が襲撃される。ついで、2月には佐賀の乱が起こる。内務卿大久保は、反乱鎮定の全権を与えられて出発し、約一か月で平定した。この頃から大久保の存在が目立つようになる。外遊以後成長した大久保は帰国すると木戸に代わって権力を握ったが、さらに明治7年、台湾出兵をめぐる対立から木戸が一時下野すると、実質的には大久保専制が確立した。

 征韓論争に敗れて下野した西郷は、明治6年11月鹿児島に帰着し、もうどこにも出仕しないと心を固めたのであった。これから3年余りの西郷の足跡ははっきりしないが、穏棲していたと思われる。明治7年6月、帰郷した士族たちを集めて、西郷の指導により、私学校が設けられた。西郷は教育に直接は関与しなかったが、私学校は、結果的に西郷党結束の機関となった。私学校は、旧藩時代の郷中教育を発展させたもので、帰郷した士族やその子弟に軍事教練と精神訓話を施すものであった。明治9年3月、廃刀令が出され、8月、秩禄を廃止し(秩禄処分)、代わりに金禄公債証書条例が発表されると、士族は完全に経済的な特権を失い、反乱が各地に相次いだ。10月、熊本の神風連の乱、そして、秋月の乱、萩の乱が続いた。この時点で、全国の士族もまた西郷の挙兵を期待したが、西郷は挙兵にはなお慎重であった。大久保内務卿は、明治9年7月大山県令を上京させ、私学校派県官の罷免を要求したが、大山はこれを拒否し、県令以下総辞職の線で対抗した。県官の罷免に失敗した政府は10年1月下旬、陸海軍省設置の際に、新政府の所管に移っていた鹿児島の火薬庫の武器・弾薬の徴収に着手する。これに刺激された私学校の一部急進派は火薬庫を襲撃し、武器・弾薬を奪う挙に出た。当時、大隅半島の小根占に遊猟中であった西郷は、使者より火薬庫襲撃の報を聞くと、思わず、「しまった」と口走ったという。また、大久保の内命を受けて派遣された中原警部他20名が捕らえられ、西郷暗殺の密命を帯びていたことを自白させられるという事件も起こった。2月7日、西郷は、大山県令に、政府のやりかたについて上京問責の決意を告げる。かくして、2月15日、十数年ぶりの大雪の中、先鋒隊は出発した。政府は熊本鎮台からの報を受け、19日、征討の詔を発し、西南戦争の火ぶたがきられた。

歌川芳虎 作「鹿児島の賊軍熊本城激戦図」

明治10(1877)年2月20日、先鋒の独立大隊は川尻に到着。21日の夜半から22日の早朝にかけて、薩軍の大隊は、順次熊本に向けて出発し、熊本城を包囲した。鎮台側は、司令官谷干城(たにたてき)のもと、熊本城を中心に守備兵を配置していた。この時の戦力比は薩軍約1万4千に対して、鎮台軍約4千であった。この後、九州各地からの参加士族を加えて、薩軍は約3万にふくらんでいたともいわれる。熊本民権派の宮崎八郎らの協同隊、池辺吉十郎ひきいる学校党熊本隊などに加え、大分の民権派も相呼応し参加していた。先に初代の熊本鎮台司令官であった桐野利秋は、百姓からの徴兵鎮台兵が相手であれば、数日で落城できると、たかをくくっていた。だが、谷干城指令下に籠城策をとった鎮台兵は異常なほどの強さを発揮し、西郷軍は攻めあぐんだ。熊本城攻撃は停滞のまま、西郷軍は、南下する政府軍の大部隊と植木、山鹿、高瀬、田原坂、吉次峠などでの攻防を強いられる。そして、20日余りの激戦の後、敗退する。さらに、小川、松橋、大津、長峰、保田窪、健軍、三船、木山、八代、人吉から都城へ、延岡へ、必死に戦線を立て直しながら、敗走が続く。4月以来政府軍の占拠するところとなっていた鹿児島に入ったのが9月1日、城山に追いつめられると、政府軍から一斉攻撃を受けた。3週間余り、西郷軍はよく戦い、よく守ったが、9月24日未明、政府軍総攻撃が行われ、洞窟を出た西郷は、大腿部を撃たれ、別府晋介の介錯により自決した。

「敬天愛人」の生涯は終わり、その巨躯にはらまれていた夢は、押し寄せる近代化の波頭に没して消えた。

ちなみに、政府がこの戦争に投じた戦費、4100万円、政府軍従軍およそ6万人、戦死者6500人、西郷軍4万人、死傷者半数以上といわれる。

まとめ

西郷隆盛は、貧しい下級武士の身分から出世し、新しい国づくりを実現させた明治維新の英雄といえる。目上の人にも遠慮なく意見できる大胆さと、「敬天愛人」を地で行く優しさを兼ね備え、日本をよい国にするために人生を捧げた。西郷の死後、明治政府は、ますます近代化を推し進め、短期間で西欧諸国に追いつくほどの発展を遂げる。新しい国づくりの基礎をつくった西郷隆盛の功績は、大きいというべきであろう。

西郷は、明治天皇の覚えもよく、明治22(1889)年2月11日、明治憲法発布の大赦で赦され、正三位を贈られ、名誉を回復した。

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